第二章:屋上の絶望
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小学六年生の李思涵(リー・スーハン)にとって、あの日、屋上で起きた出来事は、ただの身体的な傷だけではなかった。あの瞬間から、彼女の心に灯っていた温かく明るい光は完全に消え去った。世界を無垢に見ることができた視線は失われ、その痛みは冷たい鉄の釘のように幼い魂の奥深くに打ち込まれ、一生消えることのない傷となった。
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放課後、夕日が古びたアパートの廊下に差し込み、長く細い影を落とす。剥がれかけたコンクリートの壁が、まるでこの建物が歩んできた歳月を静かに語っているかのようだった。
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思涵は宿題帳を忘れたことに気づき、ひとりで家に戻った。ノートを取って再び玄関を出たとき、エレベーターの「チン」という音が鳴った。その瞬間、彼女は乗ろうとした―だが、階段の陰からひとりの男が静かに現れた。上の階に住む中年男。彼女はいつも彼のことを「不気味」だと感じていた。
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男は、いつも一人で帰宅するこの少女に、前から目をつけていた。思涵がドアを開けたその瞬間、彼は静かに後を追った。
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彼女の本能が危険を察知し、急いで「閉」ボタンを押そうとした。だが間に合わなかった。男は音もなくエレベーターに入り、彼女の隣に立った。
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空気が凍りついた。
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視線の端に、彼の手に工具袋と太いロープが握られているのが見えた。
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「上の貯水タンクが漏れてるんだ。ちょっと直しに行くところなんだよ。」
彼の声は不自然なほど優しかったが、背筋が寒くなるような恐怖を与えた。
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「ちょっとだけ、手伝ってくれないかな?すぐ終わるから。」
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思涵は怯えた様子で首を振った。「あの……友だちと宿題の約束があって……」
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言い終わらないうちに、男の手が彼女の手首をつかんだ。エレベーターが十二階に着いた瞬間、彼は彼女を無理やり屋上の方へ引きずっていった。
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同じころ、沈以翔(シェン・イーシャン)の家では、壁に掛けられた時計の針がカチカチと音を立てていた。
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宿題を一緒にやる約束をしていた思涵が、いつまで経っても来ない。以翔は不安そうに窓の外を見つめ、李宸睿(リー・チェンルイ)が眉をひそめた。「またお父さんに手伝いを頼まれたのかな?」
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「でも、今日はお父さんは工事現場に行ってるって言ってた……」以翔はハッと顔を上げ、不安が胸を突いた。「彼女の家に行ってみよう!」
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二人は走って思涵の住むアパートへと向かった。宸睿が先に管理人に尋ねた。「思涵ちゃん、見かけませんでしたか?」
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年老いた警備員は記憶をたぐるように眉をひそめた。「さっき、上の階へ行ったようだったな。」
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沈以翔はすぐに彼女の家のインターホンを押したが、応答はなかった。彼は宸睿と視線を交わし、二人とも胸に不安が広がった。
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「監視カメラ、見せてもらえませんか?」宸睿は管理人に懇願した。
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画質の悪いモノクロ映像の中で、小さな背中に見覚えのあるランドセルを背負った姿が、屋上へと向かうのが映っていた。
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「彼女、屋上に行ったのか?」
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以翔の表情が一変し、迷うことなくエレベーターに飛び乗った。宸睿もすぐに続き、警備員も異常を察知し、後を追った。
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屋上の鉄の扉が「ガン」と音を立てて開いた。
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そして、目に飛び込んできた光景は―息が止まるほどの悪夢だった。
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李思涵は男に壁際に押し倒され、口をふさがれ、激しく足をばたつかせていた。男はズボンを下ろしかけ、顔には歪んだ笑みが浮かんでいた。
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沈以翔の目に、怒りの炎が宿った。宸睿はすぐに隅にあった竹箒を掴み、それを力強く振り下ろした。
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「やめろ!」彼は叫んだ。
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箒が男の背中に命中し、男は痛みで叫び声を上げた。慌ててズボンを上げようとするその瞬間、警備員も到着し、他の住民の助けを得て男を床に押さえつけた。
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思涵の制服はボロボロに破れ、彼女の身体は小刻みに震えていた。涙が止めどなく頬を伝っていた。
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沈以翔は自分の上着を脱ぎ、そっと彼女の肩にかけた。だが次の瞬間、彼は固まった。
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彼女の下半身が―血で染まっていた。
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彼は彼女を強く、震える手で抱きしめた。彼女をその腕の中で包み込むように、何もかもから守ろうとするかのように。
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「もう大丈夫だよ……僕がいるから。君はもう、安全だ。」
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その声は小さく震え、まるで彼女を驚かせまいとするかのようでもあり、自分自身を必死で落ち着けようとするかのようでもあった。
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警察がすぐに到着し、その場で男を逮捕した。李思涵は救急車で病院へと搬送された。
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冷たい白い壁に囲まれた救急室。思涵はベッドに腰掛け、顔面蒼白で体は硬直していた。
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「お願い……お父さんには言わないで……怒られるから……きっと信じてくれない……」
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彼女の声はかすかで、今にも消えてしまいそうだった。
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その言葉を、廊下で聞いていた沈以翔の心に鋭い痛みが走った。
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なぜ、守られるべきこの少女が、こんなときにすら父親を恐れなければならないのか?
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「ふざけるな……!」李宸睿が怒りを抑えきれず呟いた。「彼女は被害者なのに、なぜ家族を恐れなきゃいけないんだ?そんなの家族じゃない!」
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沈以翔は何も言わず、血に染まった自分の手を見つめていた。彼は洗面所に駆け込み、シンクに手をついて激しく吐いた。
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警察は社会福祉機関と連携し、思涵の保護手続きを進めた。当時はまだ携帯電話が普及しておらず、呼び出し機で父親に連絡を取ろうとしたが反応はなかった。事情聴取の末、思涵は一時的に保護施設へと預けられることになった。
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その後も李父は事件に対して無関心で、協力的な態度を見せることはなかった。
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数日後、李思涵は学校に戻ってきた。
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放課後、校門の前で沈以翔と李宸睿が静かに彼女を待っていた。そして三人は、無言で一緒に歩き出した。
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「このことは、僕たちと先生しか知らない。誰にも言わないから、安心して。」沈以翔は優しく語りかけた。
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「これからは、毎日一緒に登下校しよう。もう一人でエレベーターに乗せない。」宸睿が真剣な表情で言った。
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沈以翔が微笑んだ。「母さんに話したんだ。もし家に帰るのが怖かったら、うちに来ていいよ。空いてる部屋があるから、いつでも泊まりに来て。」
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李思涵は視線を落とし、鼻先を赤らめた。世界はまだ灰色のままだったが その中に、そっと寄り添うような、二つの小さな光が灯っていた。
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